2015年2月4日水曜日

数奇者の遺産

関ヶ原の戦いの後に佐竹藩は国替えとなり
慶長8年(1603)5月から久保田城下のまちづくりがはじまりました。
翌年の8月には現在の千秋公園にあった久保田城が竣工し
藩主佐竹義宣も移り住みました。

当時の城下町は豊臣秀吉が天正19年(1591)に行なった
京都の近世城下町への大改造が手本とされており、
久保田城下町もやはり多くの面で京都のまちづくりが手本とされました。

町の景観を美しくするという点に注目してみると
近世の生活基盤であった「町」において定められた規則
「町式目(ちょうしきもく)」があり、この規則によって
長のれん、表構えの格子の禁止などを定めたりするなど、
建物の細かいデザインを規定したものもありました。
町式目を背景に、町家の外観は町や職種の在り方と密接につながり、
整然とした統一感のある町並みを形成していきました。

一方、久保田城下町の美観形成はどうだったかというと、
やはり義宣も町並みの景観は相当重視したらしく
身分の高い武士の屋敷境を板壁にし、
身分の低い武士は生け垣にすよう自ら指示したそうです。
また、外町のメインストリートに立つ各家を二階建てに統一させたり、
見苦しいと感じた家に関しては作り直す様に命じていた程であったそうです。
さらに通町の町並みを形成する各家並の出が不揃いなので、
セットバックするようにも命じたそうです。

当時の日本人の美意識というものは現代人とは
比較にならない程高い水準であったと想像出来ます。

この時代の美の中心となっていたは茶の湯の世界。
そこには禅の教えと自然の美しさを生活に取り込む事への探求が見られました。
やがて日本の美意識は江戸時代末期から明治に掛けて
浮世絵や工芸品等により欧米諸国へ紹介され多くの芸術家に影響を与えていきました。
現代においても、appleのスティーブジョブズも禅に強い影響をうけており
製品デザインにもその概念が反影されているように思えます。

明治11年に秋田を訪れたイギリス人旅行家イザベラバードは
日本で一番好きなのは久保田だといい、
昭和10年に秋田を訪れた建築家ブルーノタウトは
秋田はまさに北東北の京都だと言わしめた程
美しい町並みと景観が保たれた町であったのだろうと思います。

その後太平洋戦争と高度成長期の影響で
久保田城下町は近代化の一途をたどっていきましたが
佐竹義宣が自ら線を引いた町割りは今も変わらず残っています。
城下町の風情が残る建物も、壊されるか否かのギリギリの所で残っています。
毎年2軒、3軒と解体される町家が増える事の無いようしっかりと見守り
早急に保存方法を考える時にきていると思います。

※2月7日から秋田市アトリオンの千秋美術館の
コレクション展「旅路」にて
江戸時代の久保田城下町の町並みが描かれた
「秋田街道絵巻」が展示されます。



佐竹義宣